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復活の地

【Vol.3】 汐留〜文明開化の地から都心回帰のシンボルエリアへ

 J-REITの先駆け、都心回帰の住宅事情に火をつけた汐留
夕闇が迫ると高層ビルにはきらめくような明かりが灯り、24時間眠らないビジネス拠点としての本領を発揮するかのような印象を与える汐留。昔のSF映画やアニメに登場するメトロポリスのように、ビルの谷間をゆりかもめが走る。この地はバブル期から再開発構想が計画されたものの、地価高騰をあおるものとして塩漬けにされていた都内最大の遊休地であった
汽笛一声、0哩(ゼロマイル)標識、新橋ステンション※1
日本鉄道史を刻んだ文明開化の象徴
 鉄道発祥の地として知られる汐留。東は浜離宮庭園と東京湾、北西は新橋に隣接しており、江戸時代から拓けたエリアだった。風光明媚な水辺と水運の利便性を見いだした大名たちは、屋敷を江戸の海岸線にも設けていた。汐留には播州立野藩脇坂家の下屋敷、仙台藩伊達家の上屋敷、そして会津藩保科家の中屋敷が立ち並び、浜離宮庭園は、将軍家の鷹狩り場であった。当時の遊興の場も、品川の海岸線から隅田川沿いに発展したのである。

 明治に入り、水辺の地は文明開化の地へと変貌する。外国人居留地や外国語学校が築地に造られ、ハイカラさんたちが闊歩するエリアとなった。汐留が鉄道の起点に選ばれたのは、築地の外国人居留地が近く、東京の商業を盛んにするためだったといわれている。

 1872年9月12日、日本で初めての鉄道が新橋−横浜間に開通。新橋停車場は日本の鉄道起点となり、今でも残る0哩(ゼロマイル)標識が打ちこまれた。「汽笛一声新橋を」で始まる『鉄道唱歌』※2にも歌われた新橋停車場が、後の国鉄汐留貨物駅である。この停車場の駅舎は、アメリカの建築家ブリジェンスが設計したもので、その壮麗な姿は三代歌川廣重の錦絵『東京名所之内 新橋ステンション蒸汽車鉄道図』(写真右)に残されている※3。当時の汐留は、まさに文明開化と富国強兵の日本を象徴するエリアだったのである。

 鉄道の敷設が進んだ1914年、東京駅開業に伴って新橋停車場は汐留貨物駅と改められ、現在の新橋駅の位置に烏森駅が開業し、現在のレールウェイが確立した。そして高度経済成長期の1965年に汐留貨物駅は国史跡の指定を受ける。しかし、その後は鉄道貨物輸送が衰退し、1986年10月31日、三両の貨物列車の発車を最後に、汐留貨物駅はその業務を終えた。さらに、翌年の国鉄分割民営化とともに駅も廃止され、ここに汐留の鉄道史は終焉したのである。
三代歌川廣重作 《新橋汐留蒸気車鉄道局停車館之真図》/1879年(明治12年)大型陶板に複製/交通科学博物館所蔵
※1 ・・・ 当時は「ステーション」を「ステンショ」「ステンション」となどと呼んでいた
※2 ・・・ 1900年(明治33年)、作詞/大和田健樹、作曲/多梅雅
※3 ・・・ 駅舎は関東大震災で失われたが、東日本鉄道財団により当時の場所
に「旧新橋停車場」として復元され、2003年4月から鉄道資料とともに
一般公開が始まった。
東京の新たなビジネス拠点、住宅供給地として注目された汐留
 民営化された国鉄は、品川駅や東京駅周辺といった東京都内にも一等地に広大な跡地を有していた。国鉄清算事業団はこれらを売却し、デベロッパーたちは熾烈な入札合戦を開始。その象徴的な競争入札が1984年に実施された、現・品川インターシティの土地売却である。しかし、日本がバブル期に突入すると、地価高騰をあおるとの批判も続出し、国鉄跡地を含む公有地売却の入札は凍結された。その後、入札が再開されたときの第一号となったのは汐留だった。

 東京都は1987年の国鉄民営化直後から、汐留地区の再開発と土地区画整理事業を開始。旧汐留貨物駅跡地に西街区などを加えた約31haを都心と臨海部を結ぶ交通の結節点と位置づけ、業務・商業・文化・居住の複合都市を形成する計画を打ち出した。木造家屋や雑居ビルが集まる西街区は共同ビル化し、旧国鉄跡地を中心にスーパーブロック(大型街区)単位の開発を推進するというものである。当時、東京臨海新交通ゆりかもめは開業に向けて動き出していた。開通後は汐留がお台場への玄関口にもなる。また、都営地下鉄大江戸線の開通工事も計画され、さらにJRと営団・都営地下鉄新橋駅、JR・モノレールの浜松町駅にも近い。そして、銀座は徒歩でも行ける隣町。ビジネス拠点としてこれほどの魅力を放つまとまった土地は、都心にはもうそれほど残っていなかったのである。

 10年間も遊休地にされた汐留地区は、1997年から不動産資産流動化の起爆剤となるべく、公開競争入札の対象となった。同年2月初頭にはA街区を電通が、B街区は三井不動産・松下電工・シンガポールの政府系投資会社アルダニー・インベストメンツ連合が落札。C街区は日本テレビ放送網が取得した。1998年には浜離宮や浜松町に近いD南街区を三菱地所や三井不動産などによる8社連合が落札し、1万5,500m2の広大な敷地に住宅棟を建てることになった。このマンションが、販売前から話題を呼んだ地下2階、地上47階建の東京ツインパークスである。

 2000年10月30日、東京ツインパークスの一次抽選会が行われ、事前登録会員向けの110戸が最高54倍、平均18.3倍という高い抽選倍率を記録した。販売価格帯は3,000万円から6億円まで、間取りは40m2のワンルームから200m2超えの4LDKまでと多様な設定の全1,000戸は、開発側が狙ったIT起業家や外資系企業勤務の高額所得者といった顧客層に加え、医療体制や都市機能が充実した地でセカンドライフを過ごしたいリタイア層にもアピールする結果となった。超都心立地、耐震性などに優れた躯体と最新設備を搭載し、東京ツインパークスの人気は、都心回帰へと変化してきた住宅需要を裏付けるものとなった。
不動産ビジネスの転換期を象徴した2つの街区
 汐留地区の高層ビルの中には、それまで日本にみられなかった不動産投資信託市場を開いたものもある。汐留シティセンター、汐留タワーがその例である。

 汐留シティセンターは、前述の三井不動産をはじめとする3社連合が落札したB街区に建てられた。この街区の落札は三井不動産が本格的に不動産投信へと進出するきっかけとなったものだ。不動産投資信託(J-REIT)では、三菱地所と同時に投資ファンドを立ち上げ、上場させている。
 一方、C街区の汐留タワーだが、開発は鹿島が担当し、着工後にテナントが決定した段階で不動産証券化を図っている。開発事業主体である鹿島汐留開発は、土地所有者である日本テレビ放送網と定期借地契約を結び、完成したビルを特定目的会社(SPC)へ譲渡した。SPCは各テナントと賃貸契約を結び、その賃料を回収。そしてSPCと金融機関は信託契約を締結し、投資家がSPCに出資すると、SPCは一定の利回りで投資家や金融機関に利益を配分する、という方式である。

 このように、19世紀末に鉄道史の幕開けを飾った汐留は、21世紀の初頭、新たなビジネスモデルを打ち立てる注目のランドマーク地区として再び蘇ったのである。

汐留再開発地区(汐サイト)完成イメージ
汐留再開発地区(汐サイト)完成イメージ
画像提供=汐留地区街づくり協議会
汐留再開発地区(汐サイト)完成イメージ 配置図
1・・ A街区(カレッタ汐留、電通本社)
2・・ B街区(松下電工本社、汐留シティセンターなど)
3・・ C街区(日本テレビタワー、ロイヤルパーク汐留タワー)
4・・ D北街区(東京汐留ビルディング、汐留住友ビル、日本通運本社など)
5・・ D南街区(東京ツイン パークス)
6・・ E街区(汐留メディアタワー、トッパン・フォームズ本社など)
7・・ H街区(アクティ汐留、ラ・トゥール汐留)
8・・ 西街区(イタリアをコンセプトにした街づくりが進行中)
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