汽笛一声、0哩(ゼロマイル)標識、新橋ステンション※1 日本鉄道史を刻んだ文明開化の象徴 |
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鉄道発祥の地として知られる汐留。東は浜離宮庭園と東京湾、北西は新橋に隣接しており、江戸時代から拓けたエリアだった。風光明媚な水辺と水運の利便性を見いだした大名たちは、屋敷を江戸の海岸線にも設けていた。汐留には播州立野藩脇坂家の下屋敷、仙台藩伊達家の上屋敷、そして会津藩保科家の中屋敷が立ち並び、浜離宮庭園は、将軍家の鷹狩り場であった。当時の遊興の場も、品川の海岸線から隅田川沿いに発展したのである。
明治に入り、水辺の地は文明開化の地へと変貌する。外国人居留地や外国語学校が築地に造られ、ハイカラさんたちが闊歩するエリアとなった。汐留が鉄道の起点に選ばれたのは、築地の外国人居留地が近く、東京の商業を盛んにするためだったといわれている。
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1872年9月12日、日本で初めての鉄道が新橋−横浜間に開通。新橋停車場は日本の鉄道起点となり、今でも残る0哩(ゼロマイル)標識が打ちこまれた。「汽笛一声新橋を」で始まる『鉄道唱歌』※2にも歌われた新橋停車場が、後の国鉄汐留貨物駅である。この停車場の駅舎は、アメリカの建築家ブリジェンスが設計したもので、その壮麗な姿は三代歌川廣重の錦絵『東京名所之内 新橋ステンション蒸汽車鉄道図』(写真右)に残されている※3。当時の汐留は、まさに文明開化と富国強兵の日本を象徴するエリアだったのである。
鉄道の敷設が進んだ1914年、東京駅開業に伴って新橋停車場は汐留貨物駅と改められ、現在の新橋駅の位置に烏森駅が開業し、現在のレールウェイが確立した。そして高度経済成長期の1965年に汐留貨物駅は国史跡の指定を受ける。しかし、その後は鉄道貨物輸送が衰退し、1986年10月31日、三両の貨物列車の発車を最後に、汐留貨物駅はその業務を終えた。さらに、翌年の国鉄分割民営化とともに駅も廃止され、ここに汐留の鉄道史は終焉したのである。 |
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| ※1 ・・・ |
当時は「ステーション」を「ステンショ」「ステンション」となどと呼んでいた |
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1900年(明治33年)、作詞/大和田健樹、作曲/多梅雅 |
| ※3 ・・・ |
駅舎は関東大震災で失われたが、東日本鉄道財団により当時の場所
に「旧新橋停車場」として復元され、2003年4月から鉄道資料とともに
一般公開が始まった。 |
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