| モボ・モガ時代の田園都市型共同住宅モデル |
 |
 |
代官山アドレスが旧同潤会代官山アパートメントの建替え物件であることは、ご存知の方も多いだろう。この同潤会代官山アパートメント(竣工当時は渋谷アパートメント)は、1924年(大正13年)の関東大震災後に、被災者への安定した住宅供給と住宅密集地の浄化を目的に、「財団法人同潤会」が建設した共同住宅の一つであった。
|
同潤会が建てた集合住宅は、関東大震災の教訓から、すべてが耐震・耐火構造のコンクリート造で建築された。各戸には水道・ガス・電気はもちろん、水洗トイレを完備(トイレは一部共同)。戸棚、かまど、ダストシュートのある台所、鏡付き洗面台に下駄箱、帽子掛けまでが揃い、住棟の屋上には洗濯場や物干しもあった。全てのインフラが揃う家庭は珍しかった時代の先駆け的な住宅であった。
なかでも、代官山アパートメントは、青山女学院跡の約6,000坪の敷地に当時の最新設備を完備して建てられた大規模なものだった。
食堂、娯楽室、児童公園、共同浴場、理髪店といった共用施設も設けられ、広大な敷地には2階建と3階建の36棟(総戸数337戸)が地形を活かして点在し、3つのメインストリート、小径、そして多くの木々に彩られ、田園都市的な一つの街を形成していた。住棟の配置や外部空間のデザインには欧米的な手法などが取り入れられ、まさに、現在の大規模マンション開発の手本となった。
しかし、このハイカラアパートメントの入居者募集は10数倍という競争率を誇り、住人たちは高級官僚や大学教授などの高所得者層が占め、庶民には高嶺の花であった。
|

|
当時のハイソサエティなアパートメントも現在はレトロな雰囲気に。1986年(昭和61年)頃の同潤会代官山アパートの風景
(写真提供=代官山アドレス管理組合) |
|
 |
|
 |
|
|
 |
| 歯止めのかからないスラム化
|
 |
 |
竣工当時は憧れの的だった代官山アパートメントも、時代の流れには逆らえなかった。1947年(昭和22年)、同潤会を受け継いだ当時の住宅営団が解散し、建物の補修は住民自身に委ねられ、無管理状態に陥った。さらに1953年以降、アパートメントは住民に順次払い下げられる。それを機に部屋を賃貸に出す人も増え始めた。同時に住民の自由裁量による増改築も横行していった。
1970年代を迎え、代官山アパートメントの老朽化に拍車がかかり、1980年代にはメンテナンスをしない家主がただ同然で貸している部屋も増えていた。築50年を越えたアパートメントは全住戸の半数が貸家、30室は空家という、客観的に見るとスラム化した印象がぬぐえない建物となっていった。
一方、当時の代官山はヒルサイドテラスが順次竣工し、洗練されたエリアとして確立されていた。その間近で、かつての先進アパートメントは完全に時代に取り残されてしまった。 |
 |