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復活の地

【Vol.9】代官山アドレス〜昭和の最新から平成のニューモデルへ

 住民主導の再開発プロトモデル
かつての「山の手」の空気を保ち続ける貴重な住宅地として、根強い人気を誇る「代官山」。同地の新しい顔として2000年8月に竣工された複合エリア「代官山アドレス」は、価値の下がらない物件としても伝説を生んでいる。しかし、代官山アドレス誕生までには、大正から平成までの時の流れと、20年にもおよぶ地区住民の努力の軌跡があった。
モボ・モガ時代の田園都市型共同住宅モデル
代官山アドレスが旧同潤会代官山アパートメントの建替え物件であることは、ご存知の方も多いだろう。この同潤会代官山アパートメント(竣工当時は渋谷アパートメント)は、1924年(大正13年)の関東大震災後に、被災者への安定した住宅供給と住宅密集地の浄化を目的に、「財団法人同潤会」が建設した共同住宅の一つであった。

同潤会が建てた集合住宅は、関東大震災の教訓から、すべてが耐震・耐火構造のコンクリート造で建築された。各戸には水道・ガス・電気はもちろん、水洗トイレを完備(トイレは一部共同)。戸棚、かまど、ダストシュートのある台所、鏡付き洗面台に下駄箱、帽子掛けまでが揃い、住棟の屋上には洗濯場や物干しもあった。全てのインフラが揃う家庭は珍しかった時代の先駆け的な住宅であった。

なかでも、代官山アパートメントは、青山女学院跡の約6,000坪の敷地に当時の最新設備を完備して建てられた大規模なものだった。
食堂、娯楽室、児童公園、共同浴場、理髪店といった共用施設も設けられ、広大な敷地には2階建と3階建の36棟(総戸数337戸)が地形を活かして点在し、3つのメインストリート、小径、そして多くの木々に彩られ、田園都市的な一つの街を形成していた。住棟の配置や外部空間のデザインには欧米的な手法などが取り入れられ、まさに、現在の大規模マンション開発の手本となった。

しかし、このハイカラアパートメントの入居者募集は10数倍という競争率を誇り、住人たちは高級官僚や大学教授などの高所得者層が占め、庶民には高嶺の花であった。

当時のハイソサエティなアパートメントも現在はレトロな雰囲気に。1986年(昭和61年)頃の同潤会代官山アパートの風景
(写真提供=代官山アドレス管理組合)
歯止めのかからないスラム化
竣工当時は憧れの的だった代官山アパートメントも、時代の流れには逆らえなかった。1947年(昭和22年)、同潤会を受け継いだ当時の住宅営団が解散し、建物の補修は住民自身に委ねられ、無管理状態に陥った。さらに1953年以降、アパートメントは住民に順次払い下げられる。それを機に部屋を賃貸に出す人も増え始めた。同時に住民の自由裁量による増改築も横行していった。

1970年代を迎え、代官山アパートメントの老朽化に拍車がかかり、1980年代にはメンテナンスをしない家主がただ同然で貸している部屋も増えていた。築50年を越えたアパートメントは全住戸の半数が貸家、30室は空家という、客観的に見るとスラム化した印象がぬぐえない建物となっていった。

一方、当時の代官山はヒルサイドテラスが順次竣工し、洗練されたエリアとして確立されていた。その間近で、かつての先進アパートメントは完全に時代に取り残されてしまった。
住民主導型の再開発モデルを築いた代官山アドレス
代官山アドレスの象徴的存在「ザ ・タワー」(写真提供=鹿島建設総合管理(株)) 住民の間から建替えの提案が出されたのを機に、1980年(昭和55年)、住民自治組織による「代官山アパート団地再開発を考える会」が発足。翌年に行われたアンケートでは、住民の約80%がアパートの建替えを希望しているということがわかった。

1983年には、「代官山地区市街地再開発準備組合」を正式に発足、居住者全員の合意による再開発事業を目指す動きが始まり、組合は、渋谷区にも相談と協力を求めた。

しかし、当時の区には専門の相談窓口すらない状況だった。それでも数人の熱意あふれる住民リーダー達が奔走し、再開発実現に向けて住民や周辺地区への協力要請を続け、ついには区も動き出したのだった。

とはいえ、地権者が600名を超える状況の中、住民は高齢化し再開発に同意しない世帯も多く、全員合意を目指すものの遅々として進まなかった。

一時は計画断念かと途方にくれていた矢先、渋谷区より東京電力の変電所建設の話が持ち込まれる。

電線の敷設などで常に地権者との交渉を経験してきた東京電力が参加したことで、困難を極めていた地権者との交渉も一気に進展。1996年、数人の未同意者を残すものの約13年目にしてようやく決着した。

こうして代官山アパートメントは、4年後の2000年、「代官山アドレス」として生まれ変わった。

周辺地区の再生も含めた約17,000m2の敷地にオール電化住宅501戸の36階建タワーマンションと中高層ビル4棟、4階建1万m2の商業施設、庭園、地下駐車場、渋谷区の公共施設、変電所を有する複合エリアとして再生したのだ。

分譲マンションは平均販売価格1億円という高額ながら、最高331倍の倍率で即日完売した。そして、現在は古くからの住民と新しい住民による新たなコミュニティ活動も活発に行われる街として機能している。

この再生プロセスは、従来のようなデベロッパー主導ではなく、老朽化した住まいを建替えたいという住民たちの動きが行政や協力企業を先導した、稀な再開発のプロトモデルとしても注目されている。
代官山アドレスの敷地配置図
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