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原爆の投下によって、戦後75年は草木も育たないと言われた広島市。被爆直後から市街には闇市が立ち、壊滅状態だった路面電車は被爆2日後に一部運行を始め、1年後には住宅や市街地の復興が急ピッチで進められた。広島市の中心的な繁華街は、広島駅と爆心地の間に挟まれた八丁堀・本通地区で、被爆直後は惨憺たる有り様だったという。
浅野家の城下町として江戸時代から栄えた広島では、江戸時代からの交通の要衝であった西国街道を一部取り込んだ本通りから、西側の中島地区(現在の平和公園)に向かって商店が連なり、にぎやかな町人町を形成していた。明治時代にはこのエリアに本通り商店街が作られ、1921年(大正10年)には東側に隣接する新天地一帯に飲食店やカフェ、活動写真館、寄席といった施設が次々にオープンし、一大歓楽街を形成していく。さらに1929年(昭和4年)には、新天地北側の八丁堀エリアに百貨店の「福屋」がオープンし、これを契機に金座街が誕生した。「東京の銀座を超える商店街に」という願いをこめてネーミングされた商店街の誕生。繁華街の中心は西から東に完全に移動した。
被爆で打撃を受けた金座商店街も、1950年代初頭には息を吹き返し、福屋の復興で中心的なショッピングストリートとしての復権を果たした。しかし、1960年代後半になると、広島にも東京や大阪資本の大手百貨店やスーパーの建設要請が出されるようになる。
地元の反対運動にもかかわらず、1973年には中央通り東側に転勤族の需要を見越した「三越広島店」が、翌74年には八丁堀エリアと本通りを挟んだ西側、紙屋町に「広島そごう」がオープンした。そのため、ショッピングゾーンの中心は、三越や福屋を中心とする八丁堀エリアと広島そごうのある紙屋町という二極構造に変化した。これが広島第一次百貨店戦争である。東西のショッピングビルに挟まれることになった地元商店中心の金座街は、グレードアップを目指し、早くも70年には再開発の準備にとりかかった。ここから再開発完了までの長い道のりが始まったのである。
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