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第二次世界大戦前から駐英アメリカ大使としてロンドンに渡ったジョゼフ・パトリック・ケネディは、ケネディ家をアイルランド移民の一家から、名実ともにアメリカの名家へと変身させた人物である。同時に「先読み」のビジネスマンとしてアメリカンドリームを築いた人でもあった。
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| 最年少の銀行頭取誕生 |
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ケネディ家は1849年、第35代アメリカ大統領、ジャック・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)の曾祖父である、パトリック・ケネディが移民としてアイルランドからボストンに移り住んできたことから始まった。彼は貧困の中で病没したが、息子のパトリック・ジョン・ケネディ(PJ)は若くして商才を発揮。実業家として酒場経営から酒類輸入業者までをこなし、更には地方議会の議員にもなった。そんなPJの長男がジョセフ・パトリック・ケネディ(以下、ジョセフ)である。
ジョセフは子供の頃から不自由のない生活をしていたが、 12歳になると父のPJに言われ仕事をするようになる。最初は母の紹介で高級婦人帽子店の配達係を経験。その後は自分で仕事を探し、遊覧船のキャンディ売り、新聞売りといったものから、友人総動員で地区一番の売り上げをさらった副賞付きの石けん販売キャンペーンなどまで行った。また、ハーバード大学在学中にも友人と共同経営で観光バス事業を始め、300ドルの投資で5,000ドルの純益を挙げたというエピソードも残っている。学業こそぱっとしなかったが、優秀なスポーツマンであり、もうけの種を探すことと同様に、手にした利益の使い途にも深い思慮をめぐらしていたという。
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卒業後のジョセフは銀行家の道を進むこととなる。普通ならいつかトップに上り詰めることを目指し、下級管理職や現金出納係としてその銀行キャリアを歩んでいくものだが、彼は違った。州の銀行監査官となり、州東部一帯の銀行をくまなく歩き、各行の記録や帳簿から銀行の機能や利益を上げる仕組み、他のビジネスとの関わりを学んでいった。そして1年足らずで、チャンスをつかむ。コロンビア信託銀行がファースト・ナショナル銀行に吸収合併されそうになったところを、ジョセフ自身が乗っ取ろうと画策したのである。できる限りの金を借り、はったりで支持者を集め、最終的にファースト・ナショナル銀行に合併を断念させた。その結果、コロンビアは頭取の地位をジョセフに与え、その労に報いたのである※1。当時、ジョセフ25歳。ここにアメリカ最年少の銀行頭取が誕生したのであった。そして彼は言った。「35歳で百万長者になる」、と。
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| ※1…… |
当時のアメリカ合衆国では、アイルランド移民の地位は低く、銀行取引も難しかった。特にボストンでは、コロンビア信託銀行のみが唯一取り引きしてくれる銀行であり、アイルランド系の資産家にとっても命綱だった。また、銀行にとっても彼らは大きなスポンサーだった。 |
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| アイルランド移民区からの解放―ニューヨークへ |
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頭取となった翌年、ジョセフは市長の娘、ローズ・フィッツジェラルドと結婚する。二男(JFK)が誕生した1917年には、鉄鋼会社にヘッドハンティングされ、当時、戦争景気で沸いていた造船所の総支配人として年俸2万ドルと従業員2,000人のマネージメント職となった。やがて休戦の前後から株取引に注目し始め、まずは大統領にも影響力を持つといわれるガレン・ストーンという名の大投資家に自分を売り込んだ。1922年には彼のオフィスにデスクを置き、給料は以前の半分に減ったが、ストーンの指導の下、内部情報を利用して最小限のリスクで最大限のリターンを得る方法を学んだ。
ある時、ストーンの情報でヘンリー・フォードがポンド・クリーク石炭会社を買収する動きがあることを知る。ジョセフは多額の借金をして1株16ドルで15,000株を手に入れ、その後、1株45ドルになった時に株を売り利益を得た。彼は投資の分野でも特に「投機」を重視していた。さらに悪評のたつ市場操作にも精通し、株の共同操作※2に熱を入れる。1924年には自分が大株主になっていた企業の株価が引き下げられようとしていることを知るやいなやニューヨークへ飛び、やり手相場師を向こうに複雑な売買を仕掛けた。この取引によって、百万長者を超える大資産家となったのである。この時、ジョセフは35歳の誕生日を迎えたばかりだった。
彼にとって富とは自分自身と家族を、かつてアイルランド移民が体験した大きな悲劇から守ってくれる防波堤と考えていたという。その彼にとって金を稼ぐのは悪徳ではなかった。ジョセフはさらなる金鉱を求め、またアイルランド人を圧迫するボストンを逃れるため、1926年に家族とともにニューヨークへ転居する。そして、ウォール街の常連となったのである。
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| ※2…… |
値動きの少ない株を他の大手投機家と組んでまとめ買いをすることで株価を動かし、その株を仲間内で売買する。それに乗じて他の投機・投資家が出てくるまでその活動を続け、株価が仲間との了解済みの価格までつり上がると売り逃げして儲けを手に入れ、あとは下落に任せる、という手法。ジョセフは1920年代初頭にはかなりの資産を積み上げていた。 |
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| 大統領の父となった先読みの投機家 |
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ジョセフは1920年の強気相場が長続きしないことを冷静に見抜き、新たなビジネスとして映画産業に着目した。ボストンの投機家時代には小規模な映画館チェーンを持ち、製作と配給を手がけるチャンスを狙っていたのだった。
1925年末にはイギリス資本の映画製作会社、FBOが経営に行き詰まっていることを知ると、同社の所有者へ売却の打診し、翌年に同社の買収に成功した。実業家としての経験を活かし、映画の制作費を徹底して抑え、ブロードウェイで上映することよりも地方のメインストリートの映画館を独占していった。この経営方針のおかげでFBOは復活する。
1929年には、RCAを率いるデヴィッド・サーノフとの取引やRCAと自分が買収した巨大な映画館チェーンとの合併を実現させた。当時のジョセフの映画産業での週給は6,000ドル、さらに合併で15万ドルの報酬を受け取っている。次第にハリウッド・タイクーン(大物・実力者)としても名を馳せていった。
第二次世界大戦が始まると、いずれ社会の大変動で自分の財産が危機にさらされると読み、初めて不動産投資の分野で守りを固めていく。1940年代に下落傾向にあったマンハッタンの住宅地と商業地の買い占めを始めた。この下落を来るべき不動産ブームの前触れと判断したのである。さらに石油を産出するテキサスの土地に借地契約を結び、フロリダと南アメリカにも広大な土地を手に入れた。周到なのは、まずは法律上の住所をニューヨークから所得税も相続税もないフロリダに移してから、この新事業にとりかかったことである。そして、いち早く、最小限の頭金で買った物件を夫妻の金利をカバーする額の家賃で人に貸し、買い値よりも高く売却したのだった。財産を守ろうとスタートした不動産投資から、ジョセフは1億ドル以上の利益を上げたといわれている。
ケネディ家が名家となったのは、ジョセフの資産と人脈はもちろん、子供たちにも成功を手に入れさせるため、幼少時より貪欲さを徹底的に身に付けさせたケネディ家の家風であった。ジョセフ・パトリック・ケネディは、生涯を通じ、家長として、ビジネス活動をはじめ、息子を大統領選に勝利させるための政治家操作に至る全てをこなしたのであった。
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参考文献/
『ケネディ家の人びと』
(ビーター・コリヤー、デヴィッド・ホロウィッツ著、鈴木主税訳、草思社、1990年)
『ケネディ王国:権力に憑かれた男たち』
(ギャリー・ウィルズ著、高橋正訳、TBSブリタニカ、1983年)ほか
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ジョセフ・パトリック・ケネディ Joseph Patrick Kennedy
(1888-1969) |
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アイルランド移民の3世としてボストンに生まれた事業家、政治家。故JFK大統領を含む9人の子の父。若くして事業家の頭角を現し、投機家としても財を蓄える。その一方で政治的な活動も進行し、当時のアイルランド移民一族としては困難だった名家の仲間入りを果たす。自身の政治家キャリアは駐英アメリカ大使が最高であったが、息子に自分の意志を継がせ次男に政治の道をたどらせた。アイルランド的な家庭環境で育ち、自身もその気風を崩さず強い父親として子供の生涯に関わり、ケネディ家の気風とした人物。 |
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