東急リバブル 美しい時代へ−東急グループ
HOME 売却のご相談 物件検索 事業案内 会員登録
W.U.S World Unchiku Satellite

伝説の勝負師たち

【Vol.5】佐藤 和三郎

伝説の勝負師というと海外の投資家を思い浮かべるだろう。だが、日本にも株式市場や商品市場で果敢な戦いを展開した相場師たちがいる。特に第二次世界大戦前後の混乱期には、一攫千金の夢を追い求め、多くの相場師たちが活躍した。今回は激動の相場を動物的なカンと経験則で乗り切り、引退後は不動産業とゴルフ場経営に転身した異色の相場師、佐藤和三郎を紹介しよう。
新潟の貧農から兜町の株の世界へ
今も昔も、様々な勝負師のドラマが繰り広げられる東京証券取引所 佐藤和三郎は1902年(明治35年)2月23日、新潟県赤谷村の貧しい農家に生まれた。当時は家族の経済的負担を減らすため、子どもの頃から働きに出るのが親孝行とされていた。和三郎も小学校を卒業すると、翌年には職を求めて上京、人力車屋をしている叔父の家に転がり込む。

兜町で現物株式を扱う「桐生屋」の小僧となり、夜は赤坂の大倉商業に通った。19歳になると、才取屋※1「神田慶次郎商店」に勤務するようになる。桐生屋で株の世界と出会い、神田慶次郎商店で多くの実践的な知識を得ていったのである。

和三郎は29歳で独立し、「佐藤商店」を創立する。そして1937年(昭和12年)の日清戦争勃発により、鐘紡株で利益を得る。この鐘紡株相場が和三郎を語る上で最初のドラマといえるだろう。

和三郎は自分の才覚でこの相場に参戦したわけではなかった。男として惚れ込んだ山一証券社長の太田収に勧められ、買い側に立ったのである。

和三郎は買い始めると猪突猛進で買いまくるタイプ。その和三郎がある時点で「買っても上がらなくなったから潮時ではないか」と太田に打診。だが、太田は「まだまだ買いだ」と答える。やがて鐘紡株は暴落の瞬間を迎え、太田は巨額の損失を出し、失意のうちに自殺してしまう。

後に判明したことだが、太田率いる山一証券は買った鐘紡株をある生命保険会社に担保として差し出し、それで資金を調達して買いにつぎ込んでいた。しかしその生保は担保の株をどんどん市場で売っていた。すなわち、山一証券は自分の持株をさらに借金して金利を払いながら買っていたわけである。その後、売り方に空売りを仕掛けられて大暴落となった。

和三郎は買い方、つまり敗北した側にいたわけだが、必死で売り逃げて最終的には当時の金額で70万円という大きな利益を残す。しかし、尊敬する太田を失くした心の痛手の方が大きかったに違いない。

※1…… 「才取り」とはもともと左官屋が壁を塗るとき、塗り手に練った壁土を手渡す役目の者のこと。それが転じて株の世界では御用聞きや仲介業のことを「才取屋」という。
戦後の旭硝子相場で巨利を得る
その後、満州事変などでアジア情勢は緊迫し、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦が始まる。戦時統制経済が強まり、相場どころではなくなった。和三郎は兜町を離れ、故郷の新潟で亜炭や材木を販売して食いつなぐ。鉱山業も手がけ、福島の蛍石採掘で稼いだ。和三郎は株だけでなく起業による金儲けも上手だった。終戦後、和三郎は東京が経済の中心になると予想して再上京し、兜町に復帰。やがて丸佐証券社長を経て、合同証券社長に就任する。

1950年(昭和25年)、証券業界の伝説となる「旭硝子仕手戦」が勃発。買い方の大将は山一証券の大神一社長。山一と交流のある和三郎は大神に加担し、ここでも豪快に買いまくった。対する売り方は「売りの神様」と呼ばれる山崎種二(通称山種)と地場証券筋である。

売買が始まると250円程度といわれていた旭硝子の株価が初値420円と意外高。それでも山一証券は猛然と買い進む。当時はドッジライン※2の影響で深刻なデフレ。売り方全盛で、この高値をチャンスと見るのは当然だ。山種ら売り方が一斉に売り攻勢を掛けると、和三郎ら買い方が防戦買いを入れる。

4月11日、取り組みの均衡が崩れ、売り方の勝利が目前となった。買い方は危機を迎えるが、関西へ出張していた大神が急遽東京へ戻り、取引所で手を振って陣頭指揮をとり始める。天下の山一証券の社長がみずから手を振るなど考えられない時代であり、だからこそインパクトがあった。売り方は狼狽し、ひたすら買い戻しに走り、旭硝子株価は急騰した。

この相場は結局3日間の取引停止の後、売り方は政府やGHQに陳情し、該当日終値より17円安い514円で溶け合い※3となった。それでも和三郎の合同証券は1,500万円(現在の約7億5,000万円)の利益を出すことができた。

※2…… 「Dodge line」。GHQ経済顧問のジョゼフ・ドッジ(デトロイト銀行頭取)が立案した財政および金融の引き締め政策。日本経済の自立と安定のために1949年(昭和24年)3月7日に施行されたが、意図した以上にデフレが進行し、「ドッジ不況」と呼ばれる状態となった。
※3…… 溶け合いとは事態を打開するために一定の価格を定め、売り方も買い方もその価格で強制的に清算、手仕舞いとする解決策。
小説のモデルとなった人間的魅力。勝負師の時代と共に歩んだ一生
さて、和三郎といえば、獅子文六の経済小説『大番』のモデルとしても有名だ。この小説では波瀾万丈の相場師、赤羽丑之助として描かれ、愛称はギューちゃん。貧農の出身である主人公が株取引の世界で成功していく様子が、時代背景とともにリアルに記されている。

和三郎は明るく豪放磊(らい)落、飾らない人柄でカリスマ性もあり、山崎種二と対比して“人気の佐藤、実力の山種”と謳われた。ユーモアとウィットがあり、株では“BULL”といわれる買い専門、一度決めたら猪突猛進。データよりも独特の動物的なカンと経験則で勝負を仕掛ける相場師であった。利益が出るとそれを上乗せし、さらに大きな勝負を仕掛ける豪快さが評判で、運も味方につけて成功を重ねた。

1949年(昭和24年)に経営を引き受けた合同証券が、1957年(昭和32年)に廃業。合同証券における和三郎の活躍は戦後復興期のわずか8年だが、腹心の安部慎とともに善戦した。 翌年、四大証券の市場支配が強まると相場師としての限界を感じたのか、不動産業・ゴルフ場経営に転じる。和三郎はこのとき「もはや相場師の時代ではない」との言葉を残して去るが、それ以後は個人的な株取引はあるものの、相場師として舞台に立つことはなかった。

1973年(昭和48年)末に脳溢血で倒れ、晩年まで右半身不随で闘病することになるが、市場で成功したまま引退した数少ない相場師として記憶に留めておくべきだろう。その佐藤和三郎も1980年(昭和55年)、78歳で逝去。「一生分稼いだら引退して悠々自適で暮らす」─そう夢みる投資家は多いが、なかなか実行できるものではない。完璧なサクセスストーリーを生き抜いた和三郎は、今伝説となりつつある。
参考文献/
『相場師列伝』(第4部 佐藤和三郎/町田恒夫著)(東洋経済新報社・昭和51年発行)
『日本相場師列伝 栄光と挫折を分けた大勝負』(鍋島高明著・日経ビジネス人文庫・平成18年発行)
『J Coffeeの株式投資日記』(Website)
略歴 PROFILE
佐藤 和三郎 (1902-1980)
1902年(明治35年)新潟県生まれ。小学校卒業後、単身上京。兜町で勤務したのち29歳で独立し、「佐藤商店」を創業する。終戦後、兜町に復帰。丸佐証券社長、合同証券社長を務め、国策パルプ、旭硝子、三越新株等の相場で活躍した。引退後は不動産業・ゴルフ場経営に転身。1980年(昭和55年)78歳で逝去。
≪ 伝説の勝負師たち一覧へ戻る

ページトップへ

Copyright(C) TOKYU LIVABLE,INC. All Rights Reserved. 東急リバブル