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伝説の勝負師たち

【Vol.7】山崎 種二

山崎種二は、通称“山種(やまたね)”と呼ばれ、大きく広がる福耳が印象的な人物だった。米問屋で米穀取引を身につけ、米相場で成功。やがて独特の相場哲学をベースに株式相場でも大活躍する。そんな彼の座右の銘は、中国の古典「菜根譚」にある「成名毎窮苦日 敗事多因得意時(名を成すは毎に窮苦の日にあり、事の敗るるは多く得意の時に因る)」だった。
米問屋で経験を積み、相場に精通して独立を勝ち取る
山崎 種二肖像 (79歳当時) 1893年(明治26年)、山崎種二は群馬県の農家で生まれた。高等小学校を卒業すると翌年に上京、東京深川の米問屋「山繁商店」へ奉公に出る。小僧として働いているうちに、持って生まれた才能か、それとも努力のなせる業か、米相場に精通し大きく儲けるようになった。祖父・兵衛の「働き一両、考え五両(身を粉にして肉体労働してもなかなか稼げないが、頭を使えば大きく稼げる) 」という考え方を実践したものと思われる。

1924年(大正13年)31歳で独立し、回米問屋「山崎種二商店」を創業。米相場の中心だった蛎殻町(かきがらちょう)にて活躍をはじめる。この頃は得意分野の米相場、米穀取引に専念し、「売りの山種」と呼ばれるようになった。後年、なぜ米相場で売り方に立ったのかを問われ、種二は「売れば売るほど価格が下がることになり、庶民が喜ぶからだ」と答えている。相場師として利益を追求するのは当然のことだが、売りに徹することで貧しい人たちの役に立ちたいと考えていたあたりに、貧しい農家に生まれた種二のひそかな矜持(きょうじ)が垣間見える。
百戦百勝と形容された才能と強運
1933年(昭和8年)、種二は株式相場に進出する。1929年(昭和4年)の世界恐慌から各国経済が立ち直ろうとしていた時代だ。種二はこれまでの米相場とは変わって、株式市場では買いから入って成功する。1935年(昭和10年)には、兜町に大理石を使い、オーチス製の自動エレベーターを設置した5階建ての威容を誇る本社ビルを建設。また、麹町には総檜造りの豪邸「三番町御殿」を建設するなど、米相場も株式相場も米穀事業も順風満帆であった。「数字は嘘をつかない」、「相場に外れたときは早く降りる」というのが種二の口癖で、相場師としての才を感じさせる。

そんな種二に未曾有の危機が訪れる。1935年(昭和10年)10月、イタリアがエチオピアに侵攻したことをきっかけに「遠くで戦争が起きた場合は買い」と株価が上昇局面を迎えた。日本では特に材料がないにもかかわらず、株価は上がるばかり。種二には「採算を買い、人気を売る。なぜなら採算は実であり、人気は花だからである」という信念があった。おそらく、売りの虫がうずいたのであろう。新東(東京株式取引所の新株)、新鐘(鐘紡の新株)に的を絞って売りを仕掛けた。

まず手持ち株の範囲内でつなぎ売りをして慎重に売り上がる。ある時点で株価が行き過ぎたと判断したらカラ売りを仕掛ける。種二お得意の成功方程式だ。しかし、このときは予想をはるかに上回り、株価はどんどん上がってしまった。追証に追われ、金策も尽き、もはや万事休す─と、あきらめかけた時に奇跡が起きた。陸軍皇道派の青年将校による「二・二六事件」の勃発である。

昭和11年(1936年)2月26日早朝、大雪に見舞われた東京で、青年将校率いる陸軍部隊が政治家を襲撃。岡田啓介首相こそ難を逃れたが、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、及び渡辺錠太郎陸軍教育総監などが殺害された。これだけの騒乱が起これば株式市場は閉鎖となる。事態が収拾し、社会が平静を取り戻した3月10日に再開されたが、売り殺到で値がつかない状態。この暴落で種二は息を吹き返し、大儲けとなった。

あまりにタイミングよく利益を得たため、反乱軍と気脈を通じていたのではないかと疑われ、官憲に取調べを要請されたこともあったが、もちろん偶然であり、起訴されることはなかった。

実は種二はこれより前の1932年、米相場でも強運を見せつけている。「黒頭巾の買い」と呼ばれる伊藤ハンニ(国民新聞社主)の米買占めに売り向かったときも五・一五事件の発生で相場が下落して勝利しているのだ。作家・城山三郎は種二を描いた小説に『百戦百勝』と銘打ったが、相場でめったに負けない種二の強運はこのようなエピソードに象徴されている。

このように才能と強運で稼いだ潤沢な資産をもとに、種二は1944年(昭和19年)に「山崎証券」を設立し、自ら社長に就任。戦後は「山種証券」と社名変更し活躍、東京証券取引所理事なども歴任した。

※…… 保証金が不足した場合に補填する現金のこと
社会に役立つ事業を次世代に手渡す
速水御舟「炎舞」(重要文化財)/1925(大正14)年制作 山種美術館所蔵 相場師として厳しい戦いの日々を送る種二であったが、若い頃から美術、特に日本画を愛好していた。成功してからは美術コレクションを充実させ、画壇の巨匠たちとも親交を深めた。ある日、横山大観から「金儲けも結構ですが、この辺で世の中のためになるようなこともやっておかれたらいかがですか」と言われ、1966年(昭和41年)に近代・現代日本画を集めた「山種美術館」を設立。現在も種二のコレクションが、東京・千鳥ヶ淵近くの山種美術館で鑑賞することができる。

またあまり知られていないが、種二は教育にも関心があり、戦時中の1940年(昭和15年)には富士見高等女学校を母体とした「財団法人山崎学園(現・学校法人山崎学園)」を設立している。

こうした事業の土台であった「山種証券」は、証券業界の合従連衡の波に飲まれ、現在は「SMBCフレンド証券」と姿を変えている。しかし、事業会社である株式会社ヤマタネ、財団法人山種美術館、学校法人山崎学園などは、現在も事業を通じて立派に社会貢献している。相場の神様・山崎種二は、まさに百戦百勝の勝負師として人生に勝利し、立派な遺産を次世代に手渡したのである。


参考文献/
『相場師列伝』(豊田隆介 東洋経済編)
『日本相場師列伝』(鍋島高明 日経ビジネス人文庫)
『コンサイス日本人名事典』(三省堂)
『株式会社ヤマタネ ウェブサイト』

取材・協力/
山種美術館
http://www.yamatane-museum.or.jp/index.html
略歴 PROFILE
山崎 種二 (1893-1983)
1893年(明治26年)群馬県多野郡吉井町生まれ。1907年(明治40年)岩平村小学校高等科2年修了後、翌年東京深川の米問屋山繁商店に入店し、米穀事業に精通する。1924年(大正13年)に独立、後の山種証券となる山崎種二商店を創業し、1933年(昭和8年)株式市場に進出(現・SMBCフレンド証券)。数々の相場に勝利し「相場の神様」と呼ばれる。一方、教育にも関心を持っていたことから財団法人山崎学園(現・学校法人山崎学園)を設立したり、晩年は後世に残る事業を、との思いで、近代、現代の日本画をコレクションした、山種美術館を開設。また、自伝『そろばん』を発行した。1983年(昭和58年)に89歳で逝去。
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