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1893年(明治26年)、山崎種二は群馬県の農家で生まれた。高等小学校を卒業すると翌年に上京、東京深川の米問屋「山繁商店」へ奉公に出る。小僧として働いているうちに、持って生まれた才能か、それとも努力のなせる業か、米相場に精通し大きく儲けるようになった。祖父・兵衛の「働き一両、考え五両(身を粉にして肉体労働してもなかなか稼げないが、頭を使えば大きく稼げる) 」という考え方を実践したものと思われる。
1924年(大正13年)31歳で独立し、回米問屋「山崎種二商店」を創業。米相場の中心だった蛎殻町(かきがらちょう)にて活躍をはじめる。この頃は得意分野の米相場、米穀取引に専念し、「売りの山種」と呼ばれるようになった。後年、なぜ米相場で売り方に立ったのかを問われ、種二は「売れば売るほど価格が下がることになり、庶民が喜ぶからだ」と答えている。相場師として利益を追求するのは当然のことだが、売りに徹することで貧しい人たちの役に立ちたいと考えていたあたりに、貧しい農家に生まれた種二のひそかな矜持(きょうじ)が垣間見える。 |
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