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伝説の勝負師たち

【Vol.11】ラタン・タタ

タタ財閥は、19世紀末にジャムシェトジー・ナッセルワンジー・タタが創業した紡績会社を始祖とするコングロマリットである。7分野96社の優良企業で構成され(2008年1月現在)、インド国民の生活にとって欠かせない存在だ。タタ・サンズ(持株会社)とタタ・インダストリーズ(関連投資会社)を頂点に、製鉄、発電、重工業、化学、自動車、紅茶生産、ホテル経営などの会社が属しており、社会貢献のための財団も8団体に及ぶ。このタタ・グループを世界企業として雄飛させたのが、今回の主役─ラタン・タタだ。
ラタン・タタの花道となる国民車“nano”
2008年1月10日、インドの首都ニューデリーで自動車ショー「オートエキスポ」が開幕した。報道陣の熱い視線を浴びたのはタタ・モータースが発表した超低価格車“nano(ナノ)”である。

標準仕様で10万ルピー、日本円に換算すると約28万円という破格の安さで発売される小型乗用車だ。排気量は約620cc、低価格だが安全で環境に優しい車と伝えられる。このnano開発を推進した人物こそ、タタ・グループを率いるラタン・タタ会長であった。

ラタンは1937年インドのムンバイ生まれ。タタ財閥の家系に生まれた彼は裕福な家庭環境にあったが、7歳のとき両親が離婚。弟ジミーとともに叔母に預けられ、そこで少年時代を過ごした。

秀才だったラタンはアメリカのコーネル大学に進み、1962年に建築学及び構造工学の学位を取得する。卒業後はIBMなどからの誘いを断り帰国し、一族が経営する「タタ・スティール」と「テルコ」で実務に専念する。

若いうちから頭角を現し、タタ財閥の後継者となったラタン。そのラタンも70歳を迎え、国民車“nano”の発売を花道に第一線を退くことを表明した。
ムンバイの<ザ・タージ・マハル・ホテル>はタタ財閥の高級5星ホテル。歴代の名立たるVIPが泊まった
タタ財閥の歴史
簡単にタタ財閥の歴史を振り返っておこう。19世紀末、日本が明治維新で近代産業国家に脱皮しようとしていた頃、インドでもヨーロッパ産業革命の恩恵を受けようとする愛国者たちが生まれた。政治の舞台ではインド独立を成し遂げたガンジーや近代化を推進したネルーが有名だが、実業家として国家と民族の自立をめざしたのがジャムシェトジー・ナッセルワンジー・タタである。

イギリスに植民地として支配されてきたインドの国民は、「なぜ先祖伝来の地で外国人が権力を握り、支配されなければならないのか」を疑問に思っていた。ジャムシェトジーが生まれた1839年は、インドの知識層と富裕層が西欧の科学と技術を学び始めた黎明期だった。ジャムシェトジーは小さな貿易業を手はじめに紡績会社の経営で成功を収める。しかし、彼は利益を追求するだけでなく、1885年のインド国民会議に出席して資金を提供するなど社会貢献に尽くす篤志家だった。

1887年、ジャムシェトジーは長男ドラープ・タタと親類のR・D・タタの3人で「タタ・アンド・サンズ」を設立。これが現在のタタ財閥の源流となる。晩年はインド発展の礎とすべく鉄鋼や電力の企業創設にも心血を注ぐが、1904年に志半ばの65歳で病没。その後、1907年「タタ・アンド・サンズ」は「タタ・サンズ」という合資会社に改組され、多くの傘下企業とともに発展した。
ラタン・タタによる事業再構築
そして時代は流れ、ジャムシェトジーと会社を興したR・D・タタの長男、J・R・D・タタが4代目会長となっていた。彼はタタ財閥で働いていたラタンに着目、その仕事ぶりを高く評価する。1981年になると、「タタ・サンズ」傘下で事業創設などのシンクタンクとして機能している「タタ・インダストリーズ」の会長にラタンを推挙。ラタンがまだ40代前半のことだった。それから10年後の1991年、J・R・D・タタが亡くなり、ラタンは「タタ・サンズ」の後継者となったのである。

トップに立ったラタンは事業の再構築に力を注いだ。時代遅れの設備と膨張した人員を抱えた「タタ・スティール」に25億ドルの投資を断行し、工場に最新鋭設備を導入、78,000人の社員を段階的に38,000人まで削減した。その結果「タタ・スティール」は利益体質に生まれ変わり、世界に誇る鉄鋼会社となった。その後、2007年4月には、イギリス・オランダ鉄鋼大手の「コーラスグループ」を130億ドルで買収し、世界を驚かせたのも記憶に新しい。

自動車産業への進出を本格化させたのもラタンだ。「タタ・モータース」はトラック生産が主体の地味な企業だったが、1990年代に乗用車「インディカ」を発売し大ヒット。2006年に発売した小型トラック「エース」も爆発的に売れた。そして現在、冒頭に紹介した国民車“nano”で更なる飛躍に挑戦している。
インドから世界への飛躍
このように、ラタンは、タタ財閥を率いるようになってからの10年間で事業の再構築を進めた。まさに苦節10年、変化が現われたのは2003年以降のことだ。以降の積極果敢な拡大戦略を、タタ財閥では「新成長戦略」と呼ぶ。

「私は中国の発展に衝撃を受けた。彼らは港湾だろうが高速道路だろうが作るとなればスケールが大きい。過剰だという批判があってもそんなものは意に介さない。中国人は作った容器の大きさに合わせて自分たちも成長してきたのだ」と、ラタンは語る。

彼はこうも言う。「中国が世界の工場ならば、インドはやがて世界のエンジニアセンターになるだろう」と。彼はインドには優秀な頭脳を持つ創造性あふれる人材がいることをアピールしている。

タタ財閥は、豊富な資産と革新的なビジネスモデルを武器にグローバルビジネスの舞台に踊り出ようとしている。その未来は輝かしいものに見える。しかし、カリスマ的存在であるラタンが引退した後、タタ・グループはどのような企業体になっていくのか。今後の展開が興味深い。
参考文献/
『富を創り、富を生かす』(ルッシィ・M・ララ著 サイマル出版会刊)
『The last Rajah』(Pete Engardio著 Business Week誌掲載)
『世界最安28万円の車』(東京新聞2008.1.11朝刊掲載)
略歴 PROFILE
ラタン・タタ (1937- )
1937年12月28日、インドのムンバイに生まれる。7歳のとき両親が離婚、叔母に養育される。高校卒業後アメリカのコーネル大学で学位取得。帰国後はタタ財閥の系列会社で経験を積み、1971年に経営危機に瀕していたNelcon社を再建。グループ内外で評価を高め、40代になると財団後継者として頭角を現す。普段は温厚だが、かつて共産主義者の破壊活動で銃を向けられたとき、「おまえは銃を捨てるか、今すぐ撃つかしかない。なぜなら私は絶対にここを動かないからだ」と立ちふさがった武勇伝もある。会長就任後はアイデアと実行力でタタ・グループを世界企業に導いた。
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