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| 2009年春、広島市を代表する広島東洋カープのフランチャイズ球場、広島市民球場が、老朽化のため取り壊され移転する。市民のシンボル的存在の市民球場の移転は、駅前の人の流れや地元商店街などに様々な影響を与えることが考えられる。過去にもいくつかの転換の歴史を持つ広島市は、今また、転機を迎えている。 |
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| 地元企業の“寄付”から生まれた市民球場 |
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広島市といえば、広島カープ。そして熱狂的なファンと広島市民球場を思い浮かべる人も少なくないだろう。企業色が強い日本のプロ野球界の中で、広島カープは異彩を放っている。本拠地の広島市民球場の所有者はその名の通り、広島市。れっきとした公営球場なのである。
他球団でも、発足当初は公営球場をフランチャイズとしていた球団はある。しかし、半世紀にわたって、プロ球団が市営球場をフランチャイズとしてきた例は他にない。
そのために広島東洋カープのファンは、特に地元意識が強いと言われる。広島のシンボルとして、原爆ドーム、広島城と並んで広島市民球場を挙げる人も少なくない。
そもそも広島市民球場は、 1957年に市民の要望が高まり、地元企業12社の寄付によって建設された。それまで使用していた広島総合球場(現・広島県総合グランド野球場)は、収容人員が少なく、照明設備もなかった。 |
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この時の地元企業12社の寄付が、市民球団とも言える広島東洋カープを育んだと言える。立地条件も、昨今の球場に多い郊外ではなく、広島繁華街のド真ん中にあることから、ナイター観戦後は一杯飲みながら野球談義というのが、広島の野球ファンの定番コースとなっていた。新球場はJR広島駅に近いが、これまでの繁華街からは遠くなるために、寂しがるファンも多いという。 |
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| 一人の少女の日記が生んだ世界遺産 |
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もう一つ、広島のシンボルともいえるのが、世界遺産にも登録された「原爆ドーム」だ。元々は、“広島県物産陳列館(後に産業奨励館)”として建設され、日本で初めてバームクーヘンを売った場所でもある。それが、爆心地からわずか100mという至近距離で原子爆弾の被害を受け、現在の姿となってしまった。今や誰もが“広島のシンボル” 、“原爆被害の象徴”、 “平和へのメッセージ”として、原爆ドームを連想するが、この建物の保存が決まった経緯は、意外な所から始まっている。
それは、被爆し急性白血病で亡くなったある女子学生の日記が発端だった。「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」。この文を読んだ人々が保存運動を起こし、1966年に市議会で原爆ドームの保存が決定された。それまでは「悲惨な想い出を遺すもの」として、取り壊しを求める声も少なからずあったのだという。 |
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| 戦争が変えた大転換、「軍事都市」から「平和都市」へ |
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今でこそ「平和都市」というイメージの強い広島だが、戦前・戦中は、 「軍事都市」としての役割が強かった。日清戦争時には広島城内に大本営が置かれ、以後も隣接する呉市の呉軍港を中心に栄えてきた。加えて、瀬戸内工業地帯の中心となる工業都市としても発展した。
軍事都市として注目されたために、広島が原子爆弾のターゲットとされたとも言われている。軍事都市の名残として注目されているのが、呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」だ。海軍の象徴とも言える戦艦大和の1/10模型が展示されていることで話題となっている。
また、広島市の西に隣接する廿日市市にも、世界遺産に登録されている厳島神社がある。広島市内から路面電車で「宮島口」まで行けば、目の前に厳島神社がある宮島に渡る船が見える。 |
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古くは推古天皇の時代にもその記録が残り、平清盛によって現在の社殿が造営されている。平氏滅亡後も敵であった源氏を始め、多くの武将からの崇敬を受けた軍事の神としての側面もある。
歴史をひも解けば、軍の要衝であった広島。第二次世界大戦終戦を機に、広島は大きく転換し、今や国際平和文化都市として世界的に有名となった。そして2009年春、戦後の広島市のシンボルだった広島市民球場が閉鎖する。平和公園や、広島城に隣接した広島の中心地に位置していた球場の移転は、街に少なからず変化をもたらすと思われる。これから新球場となっても広島市民の想いを繋ぎ続けてほしいものだ。 |
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