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【Vol.10】日本の中枢都市「東京」の礎を築いた事業とは? 〜江戸時代の都市計画

今からおよそ400年前、日本の政治の中心地となった「江戸」。時代が移り変わった今も、我が国の政治・経済の中枢を担う都市として活動し続けている。日本の中枢都市「東京」は、どのようにしてつくり上げられたのだろうか。
太田道灌の時代〜江戸湊(東京湾)を中心に栄えた地方都市「江戸」
鎌倉時代、平家の有力武士、江戸重永の領地であった江戸の地。今から約500年前の1456年、太田道灌がその子孫を駆逐して江戸城を築き、その財力と、軍事力で江戸を全国的に知らしめた。

江戸は、江戸湊(東京湾)を中心に、湊の城下町として栄えた。当時平川河口近辺にあった江戸湊は、多くの商船や漁船で賑わい、「房州の米、常陸のお茶、信州の銅、泉州の塩魚・薬餌」など、多種多彩な物資が集まっていた。水陸の交通の便の良い江戸はこの頃から、発展の兆しを感じさせる街だった。

戦国時代になると、江戸を含む南関東一帯は北条氏に支配され、 1524年には江戸城も、北条氏によって占拠された。その後、北条氏を討伐し、天下統一を果たした豊臣秀吉が当時、ナンバー2の勢力を誇る徳川家康をこの地方都市「江戸」へ移封(領地替え)する。

1800年頃の江戸湊の風景 写真提供:東京みなと館http://www.tokyoport.or.jp/40minatokan0103.htm
これには思惑があった。秀吉は、家康の本拠地を東海から見知らぬ地方都市「江戸」に国替えをさせて、家康の力を削いでおきたかったのだ。港町として栄えたのはもう100年も前の道灌の時代。今の江戸はその整備だけでも大変な労力になるだろう。まして江戸を含む関東地方には、まだまだ北条氏の残党がいて治安も悪い。そこで秀吉は百万石の加増というプレミアをつけて家康に江戸入りを薦めたのだ。この時、家康は拠点を小田原にすることも考えていたという。もしも家康が江戸入りを断っていたら、今の東京、いや日本はなかったかもしれない。


徳川家康発令の一大都市開発事業、「天下普請」
家康は江戸へ入城すると、荒れ果てた城の改築は二の次にして、まずは、飲料水の引水をおこなった。家臣団の江戸入りで人口が激増したためだ。また、米と並び、当時の戦略物資でもあった塩を下総国行徳(現在の市川市)の塩田から運ぶため、全長4.6kmの運河を完成させた。

また、江戸湊に入る物資を江戸城に最短距離で運ぶためのバイパスとして、道三堀も開削する。道三堀は、墨田川河口から平川を経て江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、この道三堀に沿って町人の町が広がっていった。また、掘削で出た土は日比谷入江の埋め立てに使われた。

秀吉が没した2年後、家康は天下分け目の関が原の戦いに勝利し、改めて江戸を本拠にすることを表明。 1603年には征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。そして「江戸」は一大名の城下町から、全国支配の頂点に立つ将軍にふさわしい城下町として、大々的な都市整備が始まった。これが、徳川家康によって発令された江戸幕府の一大建設事業、「天下普請(てんかぶしん)」である。

天下普請は、江戸城の建設と、低地や湿地の埋め立てによる町人地の造成を急務として進められた。町人地の町割りは、京都にならい、碁盤の目状につくられ、埋立地に町人地、山の手に武家地、その周辺には寺社といった計画的な都市配置が行われた。

江戸が一般的な城下町と異なっていた点は、江戸城を中心に渦巻状に拡大する堀があったことである。家康・秀忠・家光の三代に渡って石垣普請や、川の開削などを行い、江戸城と江戸の町を防備した。この曲がりくねった堀と道路は、侵入してくる敵が一気に本丸へ攻め込むことができない。空からの攻撃が可能になるまで、江戸城は攻めにくい完璧な要塞都市だった。

また、江戸は早くから水道が確保された町だった。江戸城への給水を目的とした神田上水に加え、四代将軍家綱の時には玉川上水の建設も始められた。埋立地が多く井戸が掘れなかったためである。
渦巻状に広がる江戸城のお堀


江戸は風水都市だったのだろうか?
ここに、徳川将軍家三代に渡って仕えた天台宗の僧侶、「天海」について触れておこう。当時の僧侶は宗教家であり、学者であり、また行政官でもあった。家康は宗教紛争を見事に鎮めた天海を重用し、江戸の神仏による加護を任せた。政教分離の現代では考えられないが、この天海によって、鎮護国家、徳川家安泰のため江戸の都市計画に風水の思想が採り入れられたという。

天海は、江戸の町づくりに平安京をイメージしていた。京都の比叡山に模して、関東の天台宗本山には川越の喜多院を東の比叡山、すなわち「東叡山」と改名して据えた。後に、上野寛永寺を開山し、東叡山を喜多院から移して、江戸の鬼門封じとした。

そして江戸城の裏鬼門を抑えたのが日枝神社である。もともとは太田道灌が江戸城築城の際、川越山王社を勧請したのを、家康が江戸城内紅葉山に祀ったものである。その後何度か移転し、現在の赤坂に落ち着いた。裏鬼門を抑える寺社としては芝増上寺、目黒不動などの説もある。

また、三代将軍家光は、天海の進言により、江戸城を囲むように五色不動を設けた。陰陽五行説では、宇宙元素を、地(黄)、水(青)、火(赤)、風(白)、空(黒)の五色で表すという。目黒不動(目黒区竜泉寺)、目赤不動(文京区南谷寺)、目白不動(豊島区金乗院)、目青不動(世田谷区教学院)、目黄不動(台東区永久寺・江戸川区最勝など諸説あり)の通称「江戸五色不動尊」がそれである。

そして、家康は没後、天海によって天帝が住むと言われる北の地、日光東照宮に祀られ、江戸を見守ることとなった。このように、江戸は天海の様々な風水的仕掛けにより、霊的鎮護をされたと言われている。

江戸開府から約400年を経た今日も、東京は政治・経済の中枢を担っている。風水によるパワーで今日まで守護され、発展してきたのだろうか?と思うのもロマンを感じる。

情報出展/ 『図説 大江戸 知れば知るほど』
        (実業之日本社 1996年)
財団法人まちみらい千代田 千代田day's http://www.chiyoda-days.jp/
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