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伊能忠敬は1745年 (延享2年) 、上総国(千葉県)に生まれた。6歳の時に母を亡くし、父の実家で暮らすことに。両家とも裕福な商家だったこともあり、自然とそろばんなどの算術に触れ、学問好きの少年として育った。
16歳の時、東金付近で土地改良事業があった際、算術の知識を見込まれて現場監督を引き受ける。その時の仕事ぶりが、佐原村(現千葉県佐原市)の名士であった伊能家の関係者の目に留まり、翌年伊能家へ婿入りした。
伊能家は、代々酒造業や米取引などの裕福な商家で、佐原村の村政にも深く関わっていたが、忠敬が婿入りした当時は、当主が2代も続けて若死にするなど、衰運をたどっていた。そこで忠敬は、新しく薪や燃料などの売買を始めたり、米の販路を拡大するなどして、伊能家を立て直していった。
また、伊能家で代々行っていた村の自治や村民の統制にも尽力し、36歳の時には名主(なぬし)※となる。利根川の出水や浅間山の大噴火の降灰で、佐原村が飢饉に陥った時は、堤防修復工事や難民の救済に奔走し、その財力をもって、関西から米を仕入れて難民に |
分け与えたり、近隣の村に安く分けたりしたという。また、利根川の堤防修復工事の際、防災時の資金として使用できるよう、非常用の積立金制度も作った。こうした功績が認められ、39歳で名主から村方後見※に昇格した。
だが、40歳を越えたころから、忠敬は隠居後の人生について考えるようになる。相当な実力を備えていた算術や測量術に加えて、次は天文暦学を勉強したいという思いが芽生えていたのだ。
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| ※… …村役人の名称 |
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