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【Vol.14】誤差わずか1/1000。現在の測量に引けをとらなかった伊能忠敬の偉業

伊能忠敬は、今から200年もの昔、現在の技術に引けを取らない測量術をもって日本全国を行脚し、日本初の実測日本地図(伊能図)を作った。幕府の命に受け、未開の地、蝦夷地測量のために旅に出たのが55歳の時。平均寿命が40代だった当時、若々しい希望に燃え、自らのライフワークとして世界に誇る偉業を成し遂げた。
頭脳明晰、商才に長け、家業と村のために尽力した青年時代
測量の前には必ず参拝していたといわれる富岡八幡宮(東京都江東区)に建立されている伊能像 伊能忠敬は1745年 (延享2年) 、上総国(千葉県)に生まれた。6歳の時に母を亡くし、父の実家で暮らすことに。両家とも裕福な商家だったこともあり、自然とそろばんなどの算術に触れ、学問好きの少年として育った。

16歳の時、東金付近で土地改良事業があった際、算術の知識を見込まれて現場監督を引き受ける。その時の仕事ぶりが、佐原村(現千葉県佐原市)の名士であった伊能家の関係者の目に留まり、翌年伊能家へ婿入りした。

伊能家は、代々酒造業や米取引などの裕福な商家で、佐原村の村政にも深く関わっていたが、忠敬が婿入りした当時は、当主が2代も続けて若死にするなど、衰運をたどっていた。そこで忠敬は、新しく薪や燃料などの売買を始めたり、米の販路を拡大するなどして、伊能家を立て直していった。

また、伊能家で代々行っていた村の自治や村民の統制にも尽力し、36歳の時には名主(なぬし)となる。利根川の出水や浅間山の大噴火の降灰で、佐原村が飢饉に陥った時は、堤防修復工事や難民の救済に奔走し、その財力をもって、関西から米を仕入れて難民に
分け与えたり、近隣の村に安く分けたりしたという。また、利根川の堤防修復工事の際、防災時の資金として使用できるよう、非常用の積立金制度も作った。こうした功績が認められ、39歳で名主から村方後見に昇格した。

だが、40歳を越えたころから、忠敬は隠居後の人生について考えるようになる。相当な実力を備えていた算術や測量術に加えて、次は天文暦学を勉強したいという思いが芽生えていたのだ。
※… …村役人の名称


経緯1度の長さが知りたい。19歳年下の師の下で一から学ぶ
忠敬は役所へ隠居を申し出たが、重用されていたためなかなか許可をもらう事ができなかった。独学で暦学の書を読んだり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていたそんな時、幕府による改暦事業の噂を耳にする。この事業には、日本国内屈指の学者である高橋至時(よしとき)と、間重富(はざましげとみ)があたることとなっていた。高橋らは、大阪の民間の天文暦学の学者グループで、幕府の天文方とは比べ物にならないほどの知識の持ち主であった。彼らが江戸に呼ばれたその頃、忠敬もようやく隠居を許され、勉強のために江戸深川黒江町(江東区)に居を構えようとしていた時だった。まさに満を持して、忠敬と高橋至時は出会う事になったのだ。

至時が江戸入りすると間もなく、忠敬はその門人となった。19歳も年下の師匠の下で、どの弟子よりも熱心に学び、当時最新の暦学理論を習得していった。同時に、自ら大金を投じて作った天体観測の機器を自宅に運び入れ、毎晩熱心に観測を続けた。その設備は、幕府の天文台と比べても見劣りがしないほどであったという。

当時、暦学者の間では、「経緯1度の長さがどれくらいであるか」ということが学問上の課題となっていた。忠敬ももちろんこの課題に大変興味を持ち、独自に取り組んでいた。しかし、測量の間縄(けんなわ)を江戸の町に張り巡らせるなど幕府から許可がおりるわけもなく、もし行えたとしてもそのような小さな範囲の測量では、誤差のない緯度数など出すのは困難であった。 結局歩測や天体測量などの方法で算出していたが、正確な数字はわからないままであった。

そんな時、師の高橋至時は、蝦夷地の測量を目論んでいた。幕府にとって蝦夷の地図が必要な今、同時に経緯1度の測量に取り組めるのではないかと考えたのだ。測量にあたるには、優れた測量技術と記録能力があり、測量隊を統率するリーダーシップのある人物が必要である。加えて、幕府の予算以上の出費が予想される中、潤沢な自己資金を持つ者でないと無理だった。この条件を満たすのは、伊能忠敬を差し置いて他にいなかった。

もちろん、忠敬はこの計画を快諾。幕府から蝦夷地測量の許可をもらうまでは様々な問題もあったが、 1800年(寛政12年)4月19日、忠敬率いる6名の測量隊が江戸を出発した。忠敬、55歳の時であった。

一行は強行軍で蝦夷へ向かった。30日目に津軽海峡を船で渡り、5月22日に蝦夷地に到着。蝦夷地は難路が多く、測量には大変苦労したが、その年の10月21日、全員が無事に江戸に戻り、地図の作成にとりかかった。そして12月26日、完成した地図が幕府へ上納された。1里が2寸9分7厘(1/ 43636)の大図と、その1/ 10の小図からなる立派な地図だった。さらに長年の課題であった経緯1度は、この時27里と算出することができた。


全国地図完成までの長い旅
蝦夷地の地図作成で高い評価を得た忠敬は、幕府から全国測量を命ぜられた。翌年に第二次測量(伊豆、房総から下北)、その翌年には第三次測量(会津、秋田、竜飛岬まで北上)を実施。 第四次測量(尾張から加賀、北陸)後、ひとまず東日本の地図が完成した。また、第三次と第四次の旅の際には、経緯1度について28里2分という数字が2度算出された。至時は、これが、西洋の暦学で出した数値ともピッタリ一致していることを幕府に伝えたのだった。

ところがその2ヵ月後、至時が仕事の無理が祟り40歳で病死しまう。忠敬の落胆振りは大変なものだったが、全国地図の完成に向け、第五次測量に向かった。ようやくこの頃から、測量が幕府の事業として正式に認められ、公費も下り、行く先々での待遇も変わってきたという。

こうして17年の歳月をかけて、全10回の測量(9回目からは老齢のため不参加)を完了させた。第八次測量後は、八丁堀に居を変え、ここを地図御用所として「大日本沿海與地全図 」の作成を続けていたが、日に日に衰える体力には、さすがの忠敬も抗えなかった。 1818年(文政元年)4月13日、その完成を見ることなく八丁堀の自宅で静かに74歳の生涯を閉じた。遺言により、人生の師と仰いだ高橋至時の墓と並べて葬られた。

忠敬の死から3年後、遺志を継いだ佐原の名主時代からの仲間で地図作成の当初から協力していた久保木清淵らが、 「大日本沿海與地全図 」225枚と「大日本沿海実測録」14巻を完成させ、幕府に上呈した。地図は現在の地図と比べても誤差、1/1000という正確さで、伊能の測量隊の技術の高さを伺わせるものであった。

このように、伊能忠敬は日本で初めて実測地図作成した人物として、また、晩年から学んだ西洋暦学、天文学で第一人者となり、その生涯を情熱とロマンを持って生き抜いた賢人として、今もその名を称えられている。また、師の高橋至時の存在が、伊能忠敬にこの偉業を成し遂げさせたという事も忘れてはならない。
参考資料/
伊能忠敬研究会
伊能忠敬記念館 http://www.sawara.com/tadataka/
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